福島の希望と挫折。

  • 2012年5月31日
  • 友人
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昨年の6月1日に工場の掃除や机や椅子の搬入をして、翌2日には開所式。



開所式には、仲間が花や扇風機やお菓子や尻尾ふり招き猫人形を送ってくれた。


愛知県、茨城県、タイから駆けつけてくれた仲間も。






正直言ってしまえば、福島県いわき市で工場を設立するのは簡単なこと。


瓦礫が集まる中学校。


でも、設立後からが実はすごく大変だった。

社員さんの問題や、風評被害に苦しんだ。


操業してから順風満帆ではなく社員さんも二人辞めているのが現実。

本社から遠隔地にあり、なかなか自分や会社の意向がいわき工場の社員さんに伝わらず、残念ながら辞めてしまった。

事業が軌道に乗りかけてはレールから落ち、乗りかけては落ちの繰り返し。


自分達は息巻いて、いわき市に工場を設立して、復興だの雇用創出だのと言ってるけど、とんだお門違いの勘違い野郎だと、途中で気づいた。


東北で福島県で、復興だの雇用創出だのと活動するなら、地元の人の声を聞き、地元の人の温度を感じることが大切だと。

西日本の何も知らない自分達が、自己満足で出来るほど、復興や雇用創出は簡単ではない。

逆に、福島県の地元の人の支援や助けが必要で、それらが自分達の想いと融合した時に、初めて復興が始まると、自分は感じた。

弊社と自分は、そういった地元の人や社員さんに恵まれた。

ラッキーだったかな。

そこから、事業が軌道に乗り、今のいわき工場がある。

再三言うけど、地元の人や社員さんのおかげだ。

ありがとう。 感謝。


社員さんの問題が解決するかしないかの時に、愛知工場では、既存のお客さんから福島県の原発問題に関して、心ない言葉を浴びせられ、仕事も引き抜かれた。

その担当者に、言いたい事はたくさんあったけど、何故か何も言えなかったかな。

いや、言わなかった。

心ない言葉を浴びせられたのは到底納得は出来なかったけど、その裏にある担当者の深層心理は推し量るものがあるのかなと、自分を納得させたような気がする。

以降、自分からその担当者に会う事も無くなった。




同時に愛知工場や中国工場でも、経験した事のない問題が、連鎖して起こり体力と精神的な限界がきてたかな。


リーマンショック以上の精神負担で、6キロ弱痩せてしまった。



仕事量も引き抜かれ、大変な思いもしたけれど、いわき工場の社員さんやパートさんのモチベーションやマインドの高さに、ずいぶん助けられた。

それは本当に救いだった。





そんな経験をしながらも、気づけばいわき工場は操業から1年を迎えようとしている。



何度も言うが、これは地元の人や社員さんの支援や助けがあるから成しえた事。


いわき工場の設立を、助けてくれた東北の親友と。


それを忘れちゃいけないね。


2年、5年、10年、100年続く工場にする為に、引き続き地元の人や社員さんの支援や助けに、ありがとう。感謝。