復興プロジェクト11。

  • 2011年4月23日
  • 友人
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東名高速を菅沼氏と交代で運転しながら、愛知県まで戻ってきた。

菅沼氏を自宅に送っていくために、春日井インターで一度降りて、彼の自宅前で別れた。

お疲れさまでした。 彼のおかげで、彼に助けられて前に前に進んでいます。








5日ぶりに自宅に戻る。

知識のない事が、これほど大変だとは。

自宅に到着したけれど、放射線量の検査は明日だから、どうしていいものか。

たぶん問題はないのだろうけれど。

仕方ない、ベランダで服を脱いで着がえ、家族を起こさぬように別室で眠りに着いた。

時刻は夜中の2時過ぎだった。

福島県に行く前は、ほぼ中国出張だったので、家族の顔が見れていない。








朝から近隣の愛知県内の保健所に連絡をして、放射線量の検査のお願いをする。

一瞬、電話口の向こうで声色が変わる。

自分の住む自宅の近くでは、放射線量の検査をしてくれる所はないようだ。

困ったので、岐阜県の保健所に連絡を試みた。

すると、近くに病院で検査をしてくれると事。

早速電話連絡をしてみた。

やはり、電話口の向こうで声色が変わる。 電話は上司の課長さんにまわされた。

朝からの電話では、正直に、福島の原発から50キロ離れた場所で4日間滞在しました。と伝えてサーベイをお願いしていた。

結果的には診てくれると言う事だけれど、このようなお願いをされた。

病院に着いても、院内には入らずに、裏口の緊急搬送口の外から電話をください。と。








病院の裏口に到着し、教えてもらった電話番号に電話をしてみた。

すると、すぐに課長さんが出てきてくれて、応対してくれた。

事の経緯と事情を説明し、検査をお願いした。

テレビで見る測定器を持った方がやって来て、検査の説明をしてくれた。

しかるべき場所で、測定が始まった。

両手を軽く広げ、靴の裏まで検査してもらう。

あえて、福島で着ていたチノパンやジャケットを身にまとい、靴も福島で履いていたものを履いてきた。

全身をなめるように測定してもらい、2,3回繰り返す。

ある程度その検査方法が終わると、今度は手先と足裏を計測する測定器。

検査を開始すると、右手・左手・右足・左足の測定数値がデジタル画面に映し出された。









検査が終わり、計測してくれた方に結果を聞く。

検査結果は全く問題ない。 愛知県で普通に生活している人たちと全く変わらない数値。

検査結果が出るまでは、少し不安だったけれど、検査結果が出た時には、やはりな。とも思った。




福島でたくさんの人に会った。

本当にたくさんの人に会った。

いわき市でエンジニアリングセンターを設立して、雇用を創出すると言ったら、みんなが協力してくれた。

困っていたら、自分たちの仕事を後まわしにして、いろいろと助けてくれた。

そんな中で、風評被害に関しても多くを話し合った。

愛知県に戻ったら、地域の風評被害は問題ないと伝えて欲しいともお願いされた。




だから自分は検査に来て、検査結果が問題ない事を確認できたら、少なくともいわき市で自分のように活動しても、放射線量は全く問題がないと言う事を、SNSやメディアを通じて伝えなければならない。

自分にはその責務がある。

なぜなら、いわき市でエンジニアリングセンターを開設し、いわき市は第二の故郷になるのだから。







夕方、病院から自宅に戻り、子供を預けてある児童センターに迎えに行った。

放射線量の検査結果が問題なかったので、児童センターの玄関で、久しぶりに会う子供を抱っこしてあげた。






自分は平和で幸せだ。

東北で、学校や公民館で生活する被災者の方々が、一日も早くごく普通の生活に戻るように、自分は製造業を通じて携わっていくつもりだ。

東北にも徒手空拳でエンジニアリングセンターを開設してしまったけれど、いわきの人たちと一緒に盛り上げさせて頂ければ幸せだ。