復興プロジェクト10。

  • 2011年4月23日
  • 友人
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余震が多いのか、愛知県から来た自分達は慣れない揺れに、朝起きても下船病っぽい。

ちょっとふらふらしながら、駅前に朝食を食べに出た。

昨日と同じ喫茶店だ。

駅前の喫茶店やパン屋さんも、営業時間を遅らせてなんとか開店にこぎつけているようだ。





2日前からずっと、ボランティアの新妻さんも、事務所や工場を探してくれていた。

そして、新妻さんから電話があり、新妻さんの知り合いの山崎さんという方を紹介してもらった。

山崎さんは、地元いわき市で建築関係の会社を経営されている人。

早速、山崎専務に電話連絡をして、面会の約束をして、1時間後に会う事に。

山崎専務と山崎社長は親子で、地元で建築業を営み、従業員さんも20数名在籍する、地元に根差した立派な会社を経営されている。

山崎さんの会社に到着。 とてもきれいな会社だ。

早速、山崎専務と挨拶を交わし、事の経緯を説明した。

すると、頭の回転の速い専務は、会社が保有する貸事務所を見て欲しいと提案してくれた。

その事務所が空いているから、是非使ってみてはと。

ありがたい一言。

前日は、事務所や貸し工場を探すのが不可能かとあきらめかけていたのに。






3月11日の震災。

4月11日の余震。

余震に次ぐ余震。

貸し事務所は片づけても整理しても、余震でくちゃくちゃになるらしい。

きれいな事務所は、机がゆがみ、ホワイトボードも倒れたままだった。

直しても、片づけても、すぐに余震で元に戻るらしい。

ここでも、東北地方の方々の苦悩が垣間見れる。






途中、山崎社長も帰社して、再度打ち合わせを始めると、事の成り行きを理解された社長はこう言ってくれました。

敷金礼金もそんなにいらないし、メーター工事等もこっちで負担するから、初期投資は極力抑えてスタートしてください。と。

家賃も最大限に相談に乗ってもらった。

4人で固い握手をして、契約書を作成してくださいとお願いしました。

なぜか、みんな涙目だった。

いわき市ではみんな涙腺が弱いようだ。






男性スタッフ2名程度。 

女性スタッフ3名程度。

内職さん15人程度。

合計20名の雇用が6月までに達成できそうな、準備が整った。







雨の中、すぐにハローワークに向かった。

求人票を出したいという旨を伝えると、すぐに案内された。

相変わらず、愛知県から来た自分がいわき市でエンジニアリングセンターを開設する事に、不思議な顔をされた。

が、慣れた。

職員の方からは、何度も何度もありがとうございます、ありがとうございます、とお礼を言われた。

自分は大した事をしているつもりはないのだけれど、職員の方に何度も何度も丁寧にお礼を言われて、むずがゆかった。

今回のケースでの求人票の書き方を教えてもらい、地元に帰ってから早急に求人情報を提供する事にした。

何とかなりそうだ。





今日は最終日。

最終日の午前中に、大きく前進。

愛知県に帰る。

帰る前にお世話になった議員さんと新妻さんと市役所で会う事に。

忙しい公務の中、時間を作ってくれた議員さんと、新妻さん、菅沼氏、自分の4人で、議長室に通され、いわき市の議長と会談する機会を頂いた。

今回の震災に関しての詳しい数字解説付きの話を議長から聞かせて頂いた。

本当に大変な震災だ。

行政も全力で事に取り組んでいる事も、よくわかった。

議長も話をしながら涙目だった。







帰る時間になり、お世話になった市会議員さん、新妻さんと固い握手をした。

ゴールデンウィーク過ぎにはまた会えるかな。

雨の中、自分たちのハイエースにいつまでも手を振っていてくれた。

ちょっと段差があり、ちょっとうねった高速道路に乗って愛知県へ。

予定到着時間は25時。









久しぶりに自宅に帰る事が出来る。

公民館や学校に避難している方の中には、自宅も無くなってしまった人たちもいる。

そう考えると自分は幸せだなと思えたし、なぜかそれだけで贅沢だなとも思えた。







でも、福島県いわき市の風評被害を払拭するために、愛知県に帰ってから大きなもう一仕事が残っている。

次の日は放射線量の検査の為に病院に行く。

いわき市から来ましたと言って、堂々と検査を受けに行く。

だから、安全第一で愛知県に帰らなければ。