東北復興プロジェクト14。

  • 2011年5月19日
  • 友人
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波打つ高速道路を走り、インターをおりて下道を少し走った。

茨城の友人は道案内をする為に、用事を切り上げ、通りに出てきて自分たちを迎えに来てくれた。

会うのは2月以来だ。





彼の工場は通常稼働していると教えてくれた。

それが確認したかったというか、それを聞きたかった。

だから、心底安心したし、うれしかった。

工場の中を案内してくれた。

自分は、父方の実家も母方の実家も鉄工場を経営していた。

だから、子供の頃の遊び場は鉄工場の中で、切り粉は絶好のおもちゃだった。

茨城の友人の工場は、子供の頃によく遊んだ、鉄工場の懐かしい匂いがした。





5tもあるプレス機が、3月11の地震で2.3回動いていた。

動いた跡が床についていた。

事務所もかなりくちゃくちゃになった、と言っていたが、 笑って応えるところに、彼の人間の大きさを感じた。
また、ワイヤーカットも大変な事になったらしいが、 工場自体は彼のガッツや人脈や人間性やSNSで、早くに操業出来たらしい。

流石です。
 




突然に夜遅く寄らせてもったので、なるべく早く立ち去ろうと握手をして別れの挨拶をすると、自分は手ぶら出来たにもかかわらず、友人は僕らに差し入れをしてくれた。

ありがとう。 愛知まで戻る間に、美味しくいただきます。





別れを惜しんで、一路愛知県まで。

時間は23時を回っていた。 ナビの到着時間は翌朝5時をさしていた。

愛知の前に、次はここから東京だ。

東京で同乗の友人を一人おろして、残りの3人で愛知に帰る。

後に、この東京で途中下車した若者が、三笠製作所 いわき支店 非常勤工場長になる

  男 「杉浦恵一

この男、無一文で日本三周ヒッチハイクの旅をしている最中に地震が発生し、震災直後にいわき市に飛び込み、そのままボランティア活動を続けた、心優しき超攻撃型ヒッチハイカーだ。

案の定、東京で泊まる場所は決まっていないが、唯一の資産である彼のiPhoneで仲間に連絡を取れば、すぐさま今日の宿も決まったようだ。

翌日は、東京で彼の講演があるようだ。

お題は、震災や原発問題や未来の東北について。

無一文のヒッチハイカーが、今では東北の為に精力的に、方々で講演活動を行い、自分の人生を捧げている。

茨城の友人と同様、流石です。






東京の適当な場所で彼をおろし、ここからは自分と川路氏菅沼氏と3人で愛知まで。

しかし菅沼氏は腰痛のため、すでに戦力外通告をうけて、リアシートで気を失っている。

川路氏と2人で愛知県まで運転して帰る事に。

途中、車を乗り捨て、菅沼氏を社内に残し、自分と川路氏の2人でホテルに泊まり、朝一の新幹線で帰る事も考えたが、今回は思いとどまった。

しかし次回はどうなるかわからない。







夜も更けて、日付も変わる直前。

川路氏はこう言った。

日付が変わると、自分が起業してまる5年が経ちますよ

おめでとう。

君みたいな人が、これからの日本にたくさんたくさん出てくる事を願ってます。

そうでないと、日本の競争力が落ちてしまう。

おめでとう。

日付がかわり、彼の会社は無事に5年を終え、6年目に突入した。

操業して、10年で9割の会社が消えていく中、彼の会社は存続している。

菅沼氏の会社も同様だ。







この震災で東北も日本全体も大ダメージを受けている、復興需要は一瞬の瞬発的なもので、持続性のあるもではない。

自分は彼らと、ダメージを受けた東北や日本と一蓮托生・連帯責任だと思い、持続性のある復興支援を東日本でしていく覚悟だ。






夜中の東名高速を川路氏と2人、取りとめのない話をして、愛知県に向かって走った行った。

菅沼氏はリアシートで深い眠りについていた。